小林虎三郎と佐久間象山


小林虎三郎は、嘉永4年(1851年)に、江戸の佐久間象山の塾に入ります。

佐久間象山の塾に入ったのは、虎三郎の父である小林又兵衛と佐久間象山との関係が影響を与えています。


天保9年(1838年)に越後に来た佐久間象山は、この時長岡藩の新潟町奉行だった小林又兵衛と出会い、意気投合します。

又兵衛は、佐久間象山の学識や人物に惚れ込み、息子の虎三郎が大きくなったら入門させてほしいと依頼し、これを佐久間象山は約束したと言います。

あの佐久間象山と意気投合するぐらいですから、虎三郎の父の又兵衛も、相当の人物であったと推測できます。

実際に、佐久間象山が小林又兵衛に宛てた書簡などは、佐久間象山が気を抜かずに書いた内容になっています。

虎三郎が象山塾に入門してから、象山が又兵衛に宛てた手紙には、お世辞ではなく、将来有望な傑物であると書いています。

父の又兵衛だけでなく、佐久間象山も、自分の思想を継ぐものとして、小林虎三郎の将来に期待をしていたようです。


その佐久間象山は、黒船が来航した時代に、日本が今後採るべき道として、『「東洋の道徳」を体として持ち、「西洋の芸(技術)」を用として採り入れる』としています。

象山が唱えたこの「東洋の道徳」と「西洋の芸」についての考え方が、小林虎三郎が後に著す「興学私議」で、学問にあっては道と芸が体と用として不可分一体である、という考えの元になっています。

そういう意味では、佐久間象山の思想が、小林虎三郎に大きな影響を与え、後の米百俵の精神へと繋がっていったといっても過言ではありません。

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