小林虎三郎と河井継之助


河井継之助は、幕末期の長岡藩の家老を務めた人物で、小林虎三郎とは遠い親戚にあたる間柄です。

河井継之助と聞くと、司馬遼太郎の「峠」を思い出される方も少なくないと思います。

その小説の中では、河井継之助と小林虎三郎はライバルであり、政治的に意見が合わず、仇敵のように対立していたと描かれていますが、実際の対立は、政治思想の違いによる意見や考え方によるもので、そんな仇敵のようなものではなかったようです。

実際、河井継之助と小林虎三郎は、長岡藩の藩儒であった山田愛之助の元に集まる同志でした。

彼らの政治や政策上での考え方の違いは、小林虎三郎の師匠である佐久間象山と、河井継之助の師匠である山田方谷がそれぞれに与えた影響が大きいと思います。(河井継之助は佐久間塾にも在籍していた。)

河井継之助は、政治に対しては山田方谷ゆずりの財政・実務的な考え方で、現在の危機を脱するために、急進的な改革もしたりしました。

これに対して小林虎三郎は、精神の教育や学制の改革などに基本を置く考え方で、これができて公正な政治と経済が可能であるという根本的なものでした。

2人の対立は、おそらくこの政治思想の違いによるものと思われます。

薩長軍が長岡に迫って来た時、河井継之助も小林虎三郎も、戦争をしたくないという思いは一緒でした。

河井の立場であれば、戦争は仕方がなかっただろうとも思います。

小林虎三郎も絶対非戦論者ではなく、薩長軍が「天朝」の旗印の下に統一国家をつくろうとしているのだから、一時の屈辱を我慢してでも戦争はしてはならない、と主張していただけでした。

もし戦争となった場合は、藩主のため、お国のために必死に戦わなければならないと考えていました。


前述の司馬遼太郎の「峠」で、小林虎三郎の家が火事になった話があります。

困窮していた小林虎三郎に、普段は意見対立していた河井継之助が火事見舞いに訪れます。

これに感激した小林は、河井の心遣いに対して、「返礼」をします。

その返礼とは、河井の物の考え方、施政、人の使い方などに対しての誤りを申し述べることでした。

火事見舞いのお礼として激しい批判を浴びた河井は、それでも「小林という男は、どうにも、えらい。」と思わざるをえませんでした。

それは、火事で無一文になっても、火事見舞いにきた人間に対して、「返礼として、せめて苦言だけでも」と言って批判する、そういう卑しさの全くない態度に、ただ感動したからです。

小林虎三郎とは、そういう人物でした。

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