小林虎三郎と吉田松陰


小林虎三郎と長州の吉田松陰は、江戸木挽町の佐久間象山の塾で同門でした。

虎三郎は、入塾後わずか2年で塾頭となり、オランダ語の購読などを象山に代わってやっていました。

吉田松陰は、少し先に入塾していた虎三郎の紹介によって象山に見え、入塾することになります。

吉田松陰の名は寅次郎といい、虎三郎と同じ「とら」という字が入っていたため、この虎三郎と松陰は、象山門下の「二虎」、あるいは「両虎」と並び称されていました。

両者とも性格は異なっていたものの、妙にウマが合ったそうです。

名前が似ていること、年齢もほとんど同じ(入塾時、虎三郎が数えで24歳、松陰が数えで22歳)で、天然痘の痕の“あばた”まで同じで、同じ塾に同時期に入門していることなどから、自然と心を開いて、仲がよくなったのでしょう。

もちろん、お互いの資質を認め合っていたのは言うまでもありません。


師匠の佐久間象山もこの「両虎」には、相当の期待をしていたわけで、次のような有名な評価をそれぞれにしています。


「義卿(松陰)の胆略、炳文(虎三郎)の学識、皆稀世の才なり。但事を天下に為す者は、吉田子なるべく、我子を依託して教育せしむべき者は、独り小林子なるのみ。」


胆略は吉田松陰、学識は小林虎三郎である、とした佐久間象山は、この両虎の資質をよく見抜いていたと言えます。

幕末の動乱期に際し、回天の仕事をするのは吉田松陰で、百年先を見通した仕事をするのは小林虎三郎、としています。


小林虎三郎と吉田松陰は、両名とも幕末期に大きな働きをした人物と言えます。

この記事が参考になったと思ったら「いいね!」お願いいたします。

       

Copyright © 2007 米百俵で未来を創った男-小林虎三郎. All rights reserved