小林虎三郎の生涯


小林虎三郎は、河井継之助よりも1歳若く、文政11年(1828年)に小林又兵衛の三男として生まれ、名は虎、字は炳文、双松、号を寒翠、病翁といいました。
18歳で藩校崇徳館の助教になるなど、若い時から優秀でした。

嘉永3年(1850年)、藩命により江戸に遊学、佐久間象山の門に入りました。
長州の吉田寅次郎松陰を佐久間象山に紹介したのは、小林虎三郎です。

象山は、「義卿(松陰)の胆略、炳文の学識、稀世の才」と虎三郎と松陰を賞嘆し、象山門下の二虎と称されました。

さらに、羽倉簡堂、佐藤一斎、古賀茶渓、勝海舟と接して、その感化を受けました。

嘉永6年(1853年)、象山の説をとり、当時、幕府の老中職であった長岡藩主の牧野忠雅に横浜開港を建言したことで、帰国謹慎を申し渡されます。

安政3年(1856年)、リューマチを患ってから、病気に苦しむようになります。

慶応4年(1868年)5月、長岡藩が開戦に踏み切った時、小林虎三郎は恭順派にも与せず、独自の非戦論をもって戦争に反対しました。

長岡藩主の牧野忠訓に従い、会津から仙台に逃れます。

版籍奉還が行われた後、藩庁議政局に迎えられ、明治2年(1869年)に長岡藩の大参事に選ばれました。

明治3年(1870年)5月、長岡藩支藩の三根山藩から見舞いに贈られた米百俵を、藩士らに分与せずに、人材育成のために、国漢学校の設立資金に充てます。

明治4年(1871年)7月、病のために公職を辞しました。

明治10年(1877年)、療養先の伊香保で熱病に罹り、8月24日、東京向島にあった弟の雄七郎宅で亡くなりました。享年50。

東京の谷中墓地に葬られましたが、昭和34年(1959年)に長岡市の興国寺に改葬されました。

この記事が参考になったと思ったら「いいね!」お願いいたします。

       

Copyright © 2007 米百俵で未来を創った男-小林虎三郎. All rights reserved