米百俵の売却益を元手に、 小林虎三郎が明治3年(1870年)に設立した国漢学校は、時代とともに姿を変えていきます。
翌年の明治4年には、柏崎県長岡分黌と改称し、明治5年に長岡町組学校と合併します。
同年の11月23日、国漢学校の洋学局の流れを組む長岡洋学校が開校します。
この長岡洋学校が、現在の
新潟県立長岡高等学校です。
これは管理人の母校でもあります。
入学すると、校歌を覚えさせられるのですが、その第一校歌に「明治5年の冬の頃~、洋学校の開始より~♪」という歌詞があります。
米百俵のことは入学するまで詳しくは知らなかったのですが、そのルーツを知って、小林虎三郎の偉大さを痛感するようになりました。
虎三郎が目指したとおり、この学校からは、山本五十六(連合艦隊司令長官)、井上円了(東洋大学創設者)、小野塚喜平次(東京帝国大学総長)、小原直(司法大臣、内務大臣)ら多くの人材を輩出されました。
米百俵にゆかりのある学校を卒業したことは、僕にとって、とても誇りに思えることです。
そして、明治7年(1874年)、長岡町組学校と分離して、新潟県第三中学区、公立二十番小学阪之上校が発足します。
これが、現在の
長岡市立阪之上小学校になります。
現在の姿は、すっかりモダンな感じになっていますが、米百俵ゆかりの学校であることを、大事にしている学校です。